○証人(酒井一郎君) 当時非常に採石の現場におきましては仕事が苛酷でありました。でどういう加減か知りませんが、仕事のできない、体の弱つておる者、これに対しましては蒙古の收容所長が、五十プロでよろしい、ドクトルが五十プロの仕事をさせる者を選んで、本人に通達し、先ず隊長に申述べろ、そうして五十%の仕事をさせろと言つて、仕事場へ出すのでありますが、向うへ行きましてから、それが認められなかつたようであります
○証人(酒井一郎君) 名前は、一名は石巻の菊地七郎、もう一名は島根懸の山本義明と記憶しております。もう一名は分りません。これは外科的疾患の方であります。内科的疾患といたしましては二十名余りの者が死にました。中で、当時ひどい栄養失調に罹つておりましたので、これは間接でありますが、その者がノルマが苛酷であり、両且つ隊長の処分によりまして、日ならずして死んだという者が二名あるのであります。この名前は南雲道夫
○証人(酒井一郎君) 二年間に私が死亡診断書を作成しました人数は、恐らく三十名から三十五名以内であります。この中で内科疾患として死んだ者が二十名余り、外科疾患として亡くなりました者が十名余りであります。正確なる数字は資料がないので申述べられません。その外科疾患十名のうち、これは人爲的暴力によつて死んだものであるというふうに認めましたのが三名ございます。